自分語り&長文です。
俺はどうしても今回のレジェンダリー版「GODZILLA」(2014)が好きになれなかったのです。
見終わってからというもの、頭の中で「なんで好きになれなかったんだろうこれ」と延々考えてしまうのでとりあえず何か書いてまとめることにしました。
今回のゴジラについて触れる前に、俺がどんな風にゴジラシリーズに触れてきたかを書こうと思います。
ゴジラ映画を初めて見たのは多分、テレビでやってた「モスラ対ゴジラ」(1964)。幼虫モスラ2体の吐く糸でがんじがらめにされるゴジラを見て、なんか地味な勝ち方やな……などと思っていた。テレビが小さかったのももちろんあるわけですが。
時は1984年、9年ぶりにゴジラ映画が復活するというので、世間はけっこう盛り上がってた。田舎の通学路でもそこら中にポスターが貼ってあった。俺(以下、ドリル少年で)は小学校の中学年。
この「ゴジラ」はテレビでも盛大に盛り上げていて、映画公開に先駆けて、メイキングの特番が組まれていた。ミニチュアの東京はものすごく出来が良く、きらびやかであった。
初めて映画館でゴジラを見たのは、もちろんその1984年の復活「ゴジラ」。その頃はまだドラえもんシリーズくらいしか映画館で見たことがなくて、初めて見る子供向けではない映画だ。
冒頭からして難破船の中にいるミイラ化した遺体!襲ってくる巨大フナムシ!ホラー映画なんて言葉はまだ知らなかったが、これ本当にゴジラなの?とは思った。
地味な映画だった。
スーパーXって何だそれ、とか思っている内にそいつはゴジラの光線にサクリとやられて、最後はなんだかよくわからない電波で火山の火口におびき寄せられたゴジラが落下。涙を流すなんかエライ人。なぜか外国語の主題歌が流れるスタッフロール。
大人の映画は俺にはまだ良く分からんのだなーとまだ素直だったドリル少年は思っていた。
(まったくの余談になるがその映画館はその後潰れて、その周辺ごと再開発された結果、今では文字通り跡形も無い)
実質的に初めてちゃんと見たゴジラ映画は「ゴジラvsビオランテ」(1989)。
親と一緒ではなく、同世代の友人だけで見に行った初めての映画でもある。
冒頭、前作「ゴジラ」の映像から始まるのがものすごく新鮮だった。いわゆる「ゴジラのテーマ」をBGMにスタッフの名前が表示され、前作のダイジェストが流れる。そして、焼け跡となった東京から始まるスピーディーな人間側のバトルシーン。
エスパー養成施設で、ゴジラらしき姿を予測して描いた絵を一斉に上げる子供たち。
『第n種警戒態勢』の画面のカッチョ良さ。
前作のスーパーXとは打って変わってものすごい戦果を上げるスーパーX2。
抗核エネルギーバクテリア弾をゴジラに打ち込む権堂。
『ゴジラのテーマ』『怪獣大戦争マーチ』に加えて、ドラクエシリーズで耳に馴染んだすぎやまこういちの作曲する音楽がまた良かった。
芝居臭すぎない、説明的すぎない、ちょっとコミカルなセリフの数々。
「日本も変わったなあ……なあ、おい」(ゴジラのフィギュアを小突きながら)
「私は宝の持ち腐れというものが大嫌いだ」
「一万倍ぃ、ホントかよ?」「ホントです!」
「これがあなたの言う科学ですか!?」
(斉藤由貴版「夢の中へ」イントロからの)「♪探しものは何ですか~」
「ナンダキミタチハ?」「火事場泥棒」「いーえ、泥棒はあっち」「お前だ」
「私の仕事は敵に勝つか負けるかです」
「ん、臨時ニュースが入ったようだな。ニュースを聞け」
「薬は注射より飲むのに限るぜ、ゴジラさん!」
「要するに巨大な電子レンジか」
「勝った方が我々の敵になるだけです」
ゴジラvsビオランテは、当時のドリル少年にちょうど良いバランスの映画だった。
映画館で2回見たはずだ。今から考えるとアラは相当見えるわけだけど、本当に面白かった。
……その割には次の「ゴジラvsキングギドラ」(1991)以降、ドリル少年は映画館でゴジラを追っかけていない。テレビで放送されるか、レンタルビデオが出てから見ることになる。
「バットマン」(1989)や「バック・トゥ・ザ・フューチャー2/3」(1989/1990)などのハリウッド映画やジブリアニメ、怪獣以外の映画を見に行くようになったというのもあるし、年齢的にも戦隊モノの特撮や子供向けのアニメを馬鹿にしたがる傾向(照れともいう)が現れたのと、「vsキングギドラ」における未来人・アンドロイドM11・ドラットという失笑モノの設定のが見事に反発した結果でもある。ああ、ゴジラはもうガキ向け映画なんだな、と。
この頃のドリル少年には一人で映画を見に行く、という選択肢はなかった。映画は複数人で見に行くものだ、という固定観念があった。
もっとも、映画館で見ていなかった一番大きい理由は、おこづかいを全部ストIIを始めとする格闘ゲームにぶっこんでいたからだが。
その後、初代「ゴジラ」(1954)をレンタルで見て唸らされた直後に、「ゴジラvsメカゴジラ」(1993)でのベビーゴジラの登場→「ゴジラvsスペースゴジラ」(1994)でのリトルゴジラの造形などを見て呆れたドリル少年は、あまりのギャップにショックを受け、更にひねくれていく。
そんな訳で、次に映画館で見るゴジラ映画は「ゴジラvsデストロイア」(1995)まで飛ぶ。
その頃のドリル少年は、レンタルビデオ屋で昭和のゴジラシリーズを片っ端から借り、ゴジラ関係の本を読みまくり、宇宙船やゴジラマガジンにも手を出し、どこに出しても恥ずかしい、立派な半可通になっていた。
「ゴジラにシェーをさせたり、『そんなだからゴジラと仲良くなれないのよ!』とか言っちゃう映画は分かってないなー。やっぱりゴジラは悪モンじゃなきゃ」とかそういうヤツです。殴りたいですね。私ですけど。
何はともあれ、ゴジラが死ぬのだ。それは映画館で見なければなるまい。
この頃のドリル少年は、一人で映画を見に行くのが平気になっていた。きっかけは「クリムゾン・タイド」(1995)という映画だ。
予告編がすごく面白そうだったので、これ見に行かん?と友人を誘ったのだが、答えは芳しくなかった。
なので一人で見に行った。これがまたすごく面白い映画だったので、以降は一人で映画を見に行くのは普通になった。
久しぶりに映画館で見るゴジラ、初めて一人で見るゴジラ、そして平成vsシリーズの完結編である「ゴジラvsデストロイア」は、なんというか、ひどく歪な映画だった。
- 死に際になって異様な迫力を見せるバーニングゴジラ
- 遠景だと合成丸見えで酷いが、アップになった瞬間にものすごいカッチョ良く見えるバーニングゴジラ
- リトルゴジラの面影もないゴジラジュニア(これは大歓迎だ)
- スーパーX3の登場、都合よく用意されていた冷凍メーサー車
- 芝居臭いのを通り越して、脚本棒読みとしか思えない登場人物
- 頻繁に挿入される初代「ゴジラ」にオマージュを捧げようとして空回りしているシーンの多さ(特に「ゴジラに光を当ててはいけません。ますます怒るばかりです」あたりのセリフは登場人物の立場が全然違うのにセリフだけ初代から持ってきてるので違和感しかない)
- 新怪獣デストロイアの存在感の軽さ
- 荘厳なゴジラの死と、その後のラストシーンのわけの分からなさ
- ’84年の復活ゴジラ~今作までのいいとこ取りしたスタッフロール
確か、映画館には3回ほど足を運んだはずだ。LD-BOXも購入し、特にゴジラの死ぬシーンは何度も見た。
こうして日本のゴジラシリーズはひとまず終了した。
(翌年から上映された「モスラ」「モスラ2」「モスラ3」(1996~1998)もそれぞれ複数回映画館で見ているが、それほど影響を受けてもいないので、省略することにする)